店名の由来 -『Praça Onze de Junho(6月11日広場)』-
 プラッサ・オンゼはリオ・デ・ジャネイロにかつて存在したプラッサ・オンゼ・ヂ・ジューニョ(6月11日広場)からつけられた名前です。かつてリオのカーニヴァルが生まれた場所。そしてそこには、今日のブラジルの成り立ちを感じさせる小さな歴史が凝縮されています。

 1810年、時のポルトガル王ドン・ジョアン6世が、SantanaからSão Cristovãoまでの地域を『Cidade Nova (シダーヂ・ノーヴァ-新市街-)』と定め、その当時湿原の広がるエリアに広場を作った。『Rocio Pequeno広場』と名付けられたその広場こそ、『Praça Onze de Junho』の前身である。

 『Cidade Nova』の唯一の広場であったにも関わらず、水はけの悪さなども災いし、その後長い間あまり利用されない寂しい広場であったが、第2帝政期の1840年代、まわりの囲いや新古典主義建築の石造りでできた大噴水の設置などの再開発が施され、さらに1850年代には、周辺地域へのガス工場建設や水はけ改善の分水工事に続き、鉄道も敷かれた。

 1865年の6月11日、パラグアイとの紛争でのブラジル海軍の勝利を記念して『Praça Onze de Junho(6月11日広場)』と改名された。
 1870年代になって近くに公立学校が設立され、さらに初の路面電車も通るようになった。しかし、その後1888年の奴隷解放、89年の共和制移行に伴い、金持ち層は皆『Zona Sul』に移り住み、残された家屋は工場や宿泊所のみならず、奴隷から解放された貧民層の住む場所になっていった。

 『Praça Onze』はそんな彼らの憩いの場所として愛され、そこで彼らの都会的で洗練されたサンバ文化が育まれていった。(また、同地域は88年当時ユダヤ人が多く移住し、その一人Joseph Villigerがブラジルの有名なビール“Brahma”の製造を始めた場所でもある。ビールとサンバという素晴らしい取り合わせはまさにここで生まれたのである。)

 1933年、すっかりリオデジャネイロで市民権を得たサンバの競技スタイルでのカーニバルが行われたのが『Praça Onze』である。『Praça Onze』はその後、カーニバルが年々拡大され、1942年に『ヴァルガス大統領通り』にその地位を明け渡すまでリオのカーニバルのメイン会場だった。

 キリスト教のお祭りであるカーニバルとブラジルの国民的音楽サンバ、このふたつが初めて一体になった記念すべき場所、それがリオ・デ・ジャネイロのプラッサ・オンゼです。現在はそのヴァルガス大統領通りの一部となり、広場のあったポイントにはモニュメントがあるのみですが、リオの地下鉄の駅名としてその名を残しています。
 この素晴らしい場所にちなんで名付けられた、ここ青山にあるPRAÇA 11は、サンバ、ショーロ、MPBをはじめとしたブラジルの豊かな音楽を、たくさんの人に知ってほしい、そして気取らずに自然体で楽しんでほしい。そんな願いから生まれたお店です。
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